ホワイトボードのカレンダーを更新して、『さあ、今日から新たな1週間の始まりだ!』と、いつもの3年日記に、向かった。が?「??????」
何故か、26日の欄が空欄なのだ!
「おかしいな?ここまでは、変わる事のないルーティンなのに?どうして一日すっ飛ばしとんねん?」
不思議な気分のまま、書き始めた。「あと4日(今日も含め)で、未踏の○○歳に達する。想像だにしなかった年齢だが、今の世の中あと15年は十分活躍出来る歳である。・・・舞台を世界に・・・ん?」
続けて、昨日の締めも書こう方と思うのだが、昨日26日の記憶がない!?
以下独白、
「なんで?なんでや?」(イカメンは関西人)
「俺も、ついに来たか?」(とうの昔にだ)
「もうすぐ出勤の準備が・・・・あれっ?」(起床後すでに、45分経過してる)
「そうか!今日が26日だった!」(あほ丸出しだ!)
「やった、一日得した!」(どこまでも前向きな関西人、いえ大阪人⇒転んでも、損得で立ち直る?)
と、言う訳で・・・何故、今朝はこんな事になったか?と言えば、昨日一日で、
①時代を20年ずつ遡ったり、
②丁度100年前と25年前の話を聞いたり、
③空海⇒親鸞⇒日蓮を辿れば、日本の仏教が分かると教えられ、断念していた正剛の「空海」に再チャレンジを開始した。
それで、脳内の時間軸が、体内カレンダーみたいなものが混濁していたからだ。
で、タイトルコールのご紹介。この3つがいずれも時代の系譜を読むと言う事だったのだ!
とりあえずは、落ち着いて話してみよう。
Ocean Breezeから、インドらしいChandan の香りに切り替えて、耳元ではゴスペルの「Come Back Home」が流れている。いかにも、ぴったりといつもの様に勝手にセレンディップを感じる。
①について、前にも書いた田家秀樹著「70年代ノート~時代と音楽、あの頃の僕ら」を読んでいるが、これで政治と音楽をめぐる若者文化を知る。ウッドストック、中津川「第3回全日本フォークジャンボリー事件」や学生運動がピークを打ち、深夜放送と音楽が時代を形作っていく様を追体験して、やや懐かしさを噛み締めていた。(詳細は、別途後段に*1)
そこへ、ずっと前に録画していた「バブルへGO!!」を何の気なしに観てみようかとGROUSEと見た。こちらは、1990年の日本。金が乱舞し、船上パーティやディスコ、一万円札を振りながら銀座でタクシーを止めるシーン等々、今一度戻ってみようかとさえ思わせる中々の再現振り、完全に追体験の出来る年代に、頭のカレンダーが狂ったかもしれない。
⇒面白がって観ていたが、不況の日本しか知らぬ95年生まれのGROUSEには、良く出来た物語としか映らなかったのではないだろうか?
②次は、危機に対処する国の指導者の矜持と言うか、行動そして発言についてである。どっかの国の首相たちに聞かせなければなるまい・・・・寺島実郎氏の話。
100年前の1911年、内村鑑三が「デンマルクの国」の論考で紹介した指導者ダルガスの話だ。
1864年にドイツ・オーストリアと戦い敗れたデンマークは、国土の3分の1にあたる南の肥沃な土地を奪われ、国民が皆、荒地の前に茫然自失となった。
その時に『戦いに敗れて、精神に敗れない民が真に偉大な民である。』と言い、『ユトランドの荒野を、バラの咲くところへ』をスローガンにして、開墾を進め、防風林を作る植林事業を起こし、協同組合方式で付加価値の高い農業や酪農を進め、今日の農業・畜産大国の基礎を作った。
25年前、1986年1月28日のロナルド・レーガンの話だ。
この日は悲劇のチャレンジャーが爆発した時の彼の発言を紹介する。多くの人々が衝撃を受け、これで暫くは、アメリカの宇宙開発がストップし、子供たちの将来の夢が脆くも崩れ去った瞬間だった。数時間後、ホワイトハウスに戻ったレーガンは、子供たちに向けてこう語った。
『理解しがたい出来事かもしれないが、世の中にはこういう悲しいこともある。すべては、人類の進歩のプロセスだ。探求と発見のプロセスである。人類の地平を開くプロセスなのだ。』
そして、さらにこう付け加えた『未来は、憶測の側に立つのではなく、勇気の側に立つ。チャレンジャーの乗組員たちは我々を未来に導いてくれた。我々は彼らについていくのだ。』
この時、アメリカ国民の背筋が伸びた、この事件に正面から立ち向かえることが出来た筈だと言う。
⇒国の指導者が、危機の構造をどのように理解し、国がどう立ち向かおうとしているのか明確に発信するという100年前25年前の事例を、今の震災・原発災害に見舞われた日本の指導者は肝に銘ずべきではないだろうか?
③については、寺島氏が5月に東本願寺で、親鸞生誕750年を祝し「今を生きる親鸞」の講演をする中で語られていた。バイリンガル(中国・インド・日本語)で、科学者で土木建築などにも精通するマルチな天才空海を知ることから、親鸞の仏教を読み解き、今後日蓮についての研究が出来れば日本の仏教の系譜が、完成すると言っていたのが印象的だった。
⇒まことに「おめでたい」イカメンは、早速あきらめかけた正剛の「空海の夢」にリトライする事に、・・・・・あ~なんかす~っと入っていけそうな気がするから不思議だ。いずれここで紹介したい。
とまあ、「一日前の記憶が消えたと思ったら、実は今日がそうだった。みたいな」痴呆症状をごまかすために、ここまで言い訳をせんでもええんちゃうんか?と言った突っ込みがくるくらいに、なが~い与太話を展開するから、いっつもみんなから話が長い!と怒られるんだろうなあ。
あっ、達郎のCircus Town が流れてきた。
そもそも、イカメンが、ブルースバンド「たこず」以外に、エレキバンド「運び人」で歌うようになったのは、達郎の「ボンバー」を歌わないかと1年後輩達から誘いを受けたためで、・・・・イカメンの音楽の系譜は・・・
〈これ、これ、また始まってるがな、いかんいかん。今日は、この辺にしといたりましょう>
曲は、同級生にあたるイカメンがファンの米米クラブの石井竜也の「リズム」に変わった。
そろそろ、Humming Birdのお世話をしなければ、・・・いつ梅雨が明けて抜けるような青空がみられるのだろう。
最後に、お知らせです。GROUSEの超短期留学が決まりました。彼はハーバードを観に行けるのでしょうかね?
そして、何故か一橋大学主催の「Highschool Startup Summit」(通称 ハイスタサミット)イベントの「中高生出場者代表としての紹介」と「日経新聞の取材協力」なるものが、彼の高校の先輩経由で、Face Bookに入った。わが息子ながら、一体誰がどんな勘違いをされているのか?それとも遊びで作った「災害ったー」やもろもろのプログラムが、なんか少しでも評価されたというのか?イカメンには門外漢で分からんが・・・・日経新聞なら、似非ではないだろうけど・・・
明日こそ、月曜日。そういう事で、失礼いたします。
*1 60年代後半に一世を風靡したGS(グループサウンズ)ブームが、69年に消滅した。その年は、東大安田講堂陥落に始まる学生運動の敗北で、学生たちは行き場を失い、若者が政治に対して距離を置き始める。
70年代初め、音楽と政治は渾然一体だった。それは関西フォークの特徴でもある”プロテストソング”、反体制派のヒーローに祭り上げられた岡林信康に代表される。
関東フォークは、小室等たちだったが、70年に時代の流れを変えるのは、広島フォーク村から登場した吉田拓郎。彼が起爆剤となり、始まりだした深夜放送とフォークソングが70年代半ばまでの若者文化を形づくっていった。
70年夏、前年に行われたウッドストック・フェスティバルの記録映画が日本でも公開された。参加者40万人と言う史上最大のロックフェスである。これで、日本にもロックの波が徐々にやって来る。でもまだ主流はフォークだった。
日本の野外コンサートが各地で行われたのが71年だ。その最大のものが中津川で開催された「第三回全日本フォークジャンボリー」。3万人を集め、キャパを超えた3日間の祭典は、フォークありジャズあり、御陣乗太鼓等々が披露されたが、大混乱となった。
しかし、70年代を大きく変えたのは、72年の「浅間山荘事件」と同志12名を内輪のリンチで殺害していた「山岳ベース事件」で、これで学生運動のピリオドが打たれ、若者たちの有様を変えた。その年にブレイクしたのが、吉田拓郎。かぐや姫、井上陽水、荒井由美、五輪真弓と続く、若者たちが出口を求めて、政治に絶望し音楽の中に希望を見出していった。
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