2012年9月22日土曜日

イカメン、「覚悟決め 禅というのに 向き合えば 日本文化の 底に流るる!」

おはようござる!今朝は、性懲りもなく飲みすぎて、午前5時30分の起床。今日から始まるK祭り(学園祭)の準備で、GROUSEを午前6時に駅まで車で送る。彼は、この二日間、サッカー部とコンピューター部の参団を行ったり来たりするらしい。コンピューター部では、ハッカーとは?ともう一本の講演をやるらしい。大丈夫だろうか?だいぶ社交的になってきたことは、親として嬉しくはあるが・・・

さて、先週三連休の京都旅行編は暫しお待ちいただくとしまして、・・・・(引っ張る引っ張る)
ボイトレの極意も、少しお待ちいただいて・・・・(もったいぶる、もったいぶる)

今朝のタイトルコールは、正にここ2週間、そして、のぞみ(東京~京都)の中で、対峙した禅というものについて、詠ってみた次第です。
そろそろ、GROUSEの学園祭を嫁と観に行くので、。。。。本日の目玉は、元東京大学総長の小宮山宏先生の講演会を聞きに行くこと・・とても楽しみです。内容は、また、別途書こうかと・・・(どんどん、書かねばならん記事が。溜まる貯まる!嬉しい悲鳴状態です。)


では、また! です。

ここからは、とてつもなく長いイカメン的「禅と日本文化」の覚書である。覚悟の出来た方のみお入りくだされ・・・・・・一応続きとして、文を切っておくので、パンドラの箱をあけたい方はこちらをどうぞ。





誠に、もって瞑すべしというか名著である。手元においておきたいと思うた。
禅の精神が日本文化の底流に通奏低音の如く脈々と流れていることを教えてくれる本だ。


1.『一即多、多即一』は、『一』と『多』という二概念に分析して両者の間に即をおくのではない。分別を働かしてはいけない。それは、事実をそのままに受け取ることではなくて、これを反省し分析して概念となすことによって、知的作用を働かして、結局循環論法に陥ると言う意味である。

 つまり、無分別に、事実の直感的または体験的理解をすることにあり、仏法の根本義でもある。

般若経で言えば、『空即是色、色即是空』であり、『空』は絶対の世界で、『色』は特殊の世界で、禅のもっとも普通の文句の一つに「柳は緑に、花は紅」とあり、ここでは色、すなわち特殊の世界を直説している。体験の諸事実がそのままに受取られるのであり、禅は否定的でも虚無説的でもない。

 しかし、同時に特殊世界の経験諸事実は相対的の意味でなく、絶対的の意味において、いっさい空である。その意味するところは、分析的な論理の方法で達しうる概念ではなくて、竹の直き、花の紅などという体験的事実そのままを指す。直観または知覚の事実を素直に認めることで、ここがその注意を内部に向ける時、一切は空から出て、空に帰することを知覚するのである。

 而してここに往還といえば、いくと還るとの二つの方向があるかのごとく考えなければならぬが、実は唯一つの動きであることを知って欲しい。この動態的同一作用ともいうべきものは、我々にこの基礎まで掘り下げるべきことを教える。

イカメンは、これは、円環運動だと考える。

・・・今や水墨画の原理が、この禅体験から発していること、直接性・単純性・運動性・精神性・完全性・等々の東洋水墨画に見られる諸性質は、禅と有機的な関係を持つことを知る。水墨画も禅と同様、汎神論は存せぬのだ。

禅の論理を大拙は、「『心は心に非ざるが故に心なり』で、否定が即ち肯定で、否定と肯定とは相互に『非』の立場にある、絶対に相向かい立っているが、この『非』の立場が、直ちに『即』であると言う。『即非』は、また『無分別の分別』『無意識の意識』でもある。」と説く。

 続けてみたい、

2.「禅と武士」の章である。

禅は、始め既に旧仏教の本拠地であった京都では強硬な反対があり、日本に禅を紹介した栄西とて、ある程度まで天台や真言と妥協し調和的な態度をとる必要があった。しかし、北条氏が居を定めた鎌倉には、かかる歴史的問題はなく、北条時頼を皮切りに、北条時宗が蒙古襲来を退ける精神的礎ともなり、以来武士と禅の繋がりが強固なものとなる。

そして時頼・時宗父子の活躍により、やがて京都にまで波及し、醍醐天皇ら皇族に信望を得、多くの禅院が建てられるまでになる。それは足利幕府にも継承され、武士道と禅の結びつきは強まっていくのである。

武士道の中心思想である忠孝仁義の精神には、実践的方面と哲学的方面において一種の鍛錬を要し、一つは常住死を覚悟することである。

「すなわち、いつにても身命を捧げる武士の覚悟を強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては~意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはない。社会同胞のため深情を尽くすことである。」と述べた種々の記録・逸話・訓言で構成された「葉隠」に、述べられている。

これを大拙は、無意識状態が口を切られると、それは個人的の限度を超えて立ちのぼる。死はまったくその毒刺を失う。武士の修養が禅と提携するのは実にこの点であるとまとめている。

見事なまとめ方である。 

これを言い表わしているものとして、

塚原朴伝『武士(もののふ)の学ぶ教へは押しなべて そのきはめには死の一つなり』

葉隠には『武士道というは、死ぬことと見付けたり・・・常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果たすべきなり。』

荒木又右衛門の名言『皮を斬らして肉を斬れ、肉を斬らして骨を斬れ、骨を斬らして命をとれ』があるが、何よりイカメンとして惹かれるのは、やはり・・・

『真剣には我が身を殺されに行くと思わねば勝つこと出来申さず候。』である。

あの謙信と信玄も禅の愛好者であった。

謙信『生を必する者は死し、死を必する者は生く。要はただ心志の如何にあり、・・予は常に此の理を明らかにして三昧に入れり。生を惜しみ死を厭ふが如きは、未だ武士の心胆にあらず。』と

信玄は『語に曰く、参禅は別に秘訣なし、唯生死の切なるを思ふと。』と言い、ここに禅と武士の生活の間に内的な必然的関係があると説いている。

最後に、哲学は、知的精神の所有者によって安全に保存せられてよい。禅は行動することを欲する。もっとも有効な行動は、ひとたび決心した以上、振りかえらずに進むことである。この点において禅はじつに武士の宗教である。

そして、『潔く死ぬ』ということは、日本人の心に親しい思想は、禅の教と一致した。日本人は別段、生の哲学は持たぬが、確かに死の哲学は持っている。庶民にもこの精神は浸透していて、正しいと考えるいかなる理由のためにも、自分の命を犠牲にする覚悟をしている。
その意味で、禅は日本的性格とも言えるのだ。

次に、
3「禅と剣道」である。

ここでは仏像の意味するところと師範だけがする剣道の極意が語られていて、興味深い。

禅は活人剣殺人刀を語る。

文殊菩薩は右手に剣を、左手に経典をもつ。預言者モハメットを想起させるが、文殊菩薩の剣は、われわれ自身の貪欲・瞋恚・愚癡を殺す為であり生き物を殺す為のものではない。

不動明王も剣を持って、仏徳の流行を阻むいっさいの敵を滅ぼさんとする。文殊は積極的で、不動は消極的である。不動の憤怒は火の如く燃え、的の最後の陣営を焼き尽くすまでは消えない。然る後にふたたび元の容相をとり、彼がその侍者であり、示顕であるところの蘆舎那仏となる。

蘆舎那仏は剣を持たぬ。彼は剣そのもの。その内に全世界を容れつつ、寂然として不動である。


武士は剣に対して最高の敬意を払った。

死ぬときには剣はその床のかたわらにあり、子供が生まれたときにも、その室にあった。離れ逝く霊や生まれ来る霊の安全と幸福を妨げる悪魔が、その室に入ってくるのを防ぐと言う観念であった。

この点に万物有霊論的な考え方が残り「神剣」の観念も同様である。

また、刀鍛冶が刀を作るときにも、神を鍛冶場に招く為、注連縄を張り巡らし悪魔の進入を拝し、自分は祓いの式を行い、礼服を着用して仕事をする。

霊感の対象とまで高められた名刀には正宗村正がある。どちろも刀匠の名前を取っているが、ある実験で、水流に置き上流から流れて来る枯葉に対して、村正はどれも二つに切れたが、正宗には、木の葉は触れることを避けて行ったという。

正宗は人を切るということに関心を持たず、心をうつような神聖なもので、人情味があり、超人間的。村正は、斬ると言うこと以外に出られず、おそろしく、専制的であると評される。


剣道の最後の段階には、師範だけにしか与えられぬ奥義がある。

腕の熟達に加えて必要な秘伝は「水月」と言われている。

大拙は、つまるところ、これは禅の教である「無心論」に過ぎないと喝破している。

「要するに、水のあるところ、いかなるところにも、月が「無心」の状態で映る、その映り方を会得することである。」として、「うつるとも月もおもはず うつすとも水もおもはぬ 広沢の池」に無心の秘訣が洞徹される。そこには人の手による工夫の痕は一つもなく大自然に任されている。

月はひとつでも映る月は無数の池の中にそれぞれに存在しているが、あくまでも月はひとつしかない。う~ん、何か哲学的なものさえ感じる。これを会得すれば、もはやイカメンも免許皆伝かも?しれない。

此の外にも、「禅と儒教、禅と茶道、禅と俳句」と続くがキリがないので、この辺にしておく。

では、二度目の「また!」

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