2012年3月18日日曜日

イカメン、「バカンスも これが見納め? 最終日 これまでになく 充足感が!」

おはようございます!ほぼ1週間のご無沙汰でした。今朝は午前3時51分の起床。昨日は3時54分で、腰防30腹筋200セット久々にこなして、累計4400セット。実にいろんなことが満載のバカンスでした。これから、一斉に、ライブ後記と沖縄旅行紀などを遡って、アップします。

さて、今朝は既に午前7時です。なにしてたかって?

尊師松岡正剛「花鳥風月」の中の仏教の歴史をまとめていたというか・・・とても凄い話が満載・・・ひとことでは言い尽くせないのですが・・・
→ある意味相当打ちのめされている!




では、はじまりの始まり!

仏陀の生まれた頃のBC5~7世紀は、あのヤスパースに言わせると「人類の枢軸の時代」だったそうな。ギリシアでは、ピタゴラス、ヘラクレイトスが、ユダヤでは第二イザヤが、中国では孔子・老子そして荘子が、ペルシアではゾロアスターが出現していた・・・と。

釈迦族のゴータマ・シダルタとは、「のちに目覚めし者」との意味だそうだが、王子としてあらゆる寵愛を受けてきたが、「人は何故死ぬか?」とか「人生にはもっと本来の目的があるのではないか?」と疑問を持ち始める。
なんら寵愛も受けたことの無いイカメンが、ノンポリでお気楽な人生を歩むのは、なるほどと膝を打つ、そんなレベルとは、ちょっと訳がちゃう。

そして、出家するのは、・・・東の門で死にかけの老人に、西の門では病の人を、南の門では葬列の死人に会い、結局北の門で修行僧を見かけて自分の選ぶべき道を知るという・・・『四門出遊』(しもんしゅつゆう)に始まる。

苦行を徹底してアシバッタの樹の下で瞑想し、ある満月の日に悟りを開く仏陀となる。

これを『成道』(じょうどう)と言い、不死を観照するための世界木として、アシバッタは、のちに菩提樹と呼ばれる。正剛は、若い頃ブッダよりはジャイナ教を興したマハーヴィーラの方に惹かれたというが・・・
→イカメンは、半世紀を過ぎて初めて知ることばかり。。。あ~ラベルが違いすぎる~。

元はと言えば、ブッダは自分の悟りは、苦行の末の恩恵みたいなもので、誰かに伝えて説教しようとは考えていなかったという。
→まあ、経典だって、後の弟子達が作り上げたもので、本人は一切、何も書いていないことぐらいは、拙い知識で知ってはいたけど・・・

それが何故かヒンドウイズムの最高神であるブラフマン(梵天)に「それは、おまえ一人の悟りではない。人々にお前の考えと悟りを説法しなさい。」と告示を受け、『初転法輪』と呼ばれる説法に出かけるうちに、弟子がつき、居所のない彼らには、各地に精舎という掘っ立て小屋みたいなものが作られた。

その後、王や長者らがメセナとして寄進するようになり、その内の立派なものが、竹林精舎とか祇園精舎とかいうのが有名で、ここから原始仏教が生まれていく。

⇒イカメンにとっては、何故仏教の開祖のブッダにヒンドウーイズムの最高神が告示したのか疑問だが、それより「ほ~」と思ったのは、祇園の話から後なのである。


つまり、正剛氏が、このあと見事に仏教を簡潔に教えてくれる。その手際の見事さに感動したのだ。

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ブッダの思想は一言で言うと「縁起の自覚」であり、それは自分の個人的な体験としての悟りや思想が外側の「縁」ともいうべきものに触れるような感覚であり、そのブッダの体験の核となるものが「禅定」或いは「三昧」であり、瞑想状態に入って悟りを得たと言う理想的な心境の事だという。

ブッダの死後、原始仏教教団が分立して、①保守的な「上座部」(じょうざぶ)と②進歩的な「大衆部」(だいしゅぶ)となり、各部派に分かれた小乗仏教の時代となる。


BC3世紀のアショカ王が、伝道師を各地に派遣することで、インド全域に広がっていく。同時に教理の形骸化や堕落が起き、内部分裂が起きて理論闘争に入っていく。①の中に「説一切有部」と言う部派も出来る。

ともかく、哲学化して、煩雑化していくのだ。

「分別上座部」はのちにスリランカを経て、南伝仏教となる。阿羅漢と言う聖人づらした僧が増殖してくる。僧には、僧院に住む声聞(しょうもn)と山野修行をする縁覚(えんかく)があったらしい。

まあ、そうい状態になると、やはり、統合的に考えようと、「原点に帰れ」ということで、大乗仏教が生まれるのである。

大乗仏教特徴を一言でいえば「菩薩観」ということになるらしい。

小乗仏教から徐々に大乗仏教へと流れていくのだが、それを分かつものが「般若経」である。そこには「般若」「空」が説かれているのだと・・・イカメンは般若と言えば、鬼の顔か漫才師しか思いつかぬが・・(失礼)・・・

人間や世界の物質現象や精神現象には、6つのパラミーターと言う要素があり、これを六波羅蜜と称し、(→パラメーターと似てる?)その内のひとつが「般若」で、いわば「般若波羅蜜」であり、ブッダが縁起の自覚をした時の知のあり方である「智慧」。言葉にすること自体を超えているような知ののことを呼ぶらしい。(仏教もやはり哲学だな~

そして「空」とは、あらゆるものを超えて、一切のこだわりから離れてしまうような自由の観念とのこと。

例として、こうある。

『例えば、この庭には、牛がいない。いない牛は「空」ですが、その「空」を見てた自分はいる。そこでいない牛の「空」とその「空」を見た自分とに、もう一度「空」とみなす視点を導入する。』

→ますますもって、分かったような分からんような・・・


とにかく、この「般若」と「空」を説く大乗派の僧達自身が、「菩薩」と呼ばれるようになり、彼らの考え方が「菩薩観」となり、菩薩がいかにすごいかが、経典に書かれているのだ。

因みに、菩薩の性格によって、「法華経」「華厳経」「涅槃経」「維摩経」「無量寿経」などに分かれる

「菩薩は、自分の為の自覚だけでなく、その自覚過程が他者の為の救援活動や教化活動と一致するというハイパーボランティアなんだ」と正剛は説明してくれる。

だから、「・その教理を説く行為自体を捨てているので、教えられるものでは元々なくて、菩薩とともに、その側にいて感じるしかないのだ」とも・・・菩薩は、悟りを求める心を持った人なのである。

その後、イデアとしての菩薩が生まれ、観音菩薩となり、5世紀頃観音像が造られたのが、青頸観音

6世紀には、十一面観音が造られた。観音は変化する菩薩として生まれた様だ。「法華経」が、観音が方便力を持ってっさまざまな姿に替え衆生を救済すると書いた事が始まりで、「華厳経」によれば、観音が住む処を観音浄土としての補陀落浄土という浄土思想が生まれ「無量寿経」では、観音を阿弥陀如来の脇侍菩薩として位置づけたので、西方浄土を構成するものとして、中心に阿弥陀如来を置き、右に観音菩薩、左に勢至(せいし)菩薩を配置するようになったという。

→これだけでも、十分な知識だろう。これで、みうらじゅんやいとうせいこうの「見仏記」を読めば、十分仏教通になれるかもしれん。でも、もっと凄いのは、次だ。

2~3世紀に南インドのバラモン階級に生まれでた恐るべき天才ナーガルジュナ(龍樹)の話とその理論だ。

ナーガルジュナは、若い頃に呪術に長け、隠遁の術を悪用しては、宮廷に忍び込んで美女を次々とものにし、快楽をむさぼる悪行を繰り返した。しかしその後、天罰が下り、官能的なものに何も感じなくなる。
→随分と羨ましい話だが、いわんや悪人をや・・・とでも?言えばよいのか・・・わからんが。

そこで、改心して小乗仏教に入り、理論を徹底的に研究するが、ある時、理論はつかめても、その存在自体にはなれないと知って、大乗仏教に転向する。

この辺りは、小乗仏教→大乗仏教の通常の流れ通りであるが、・・・この次が圧巻なのだ。

彼は、大乗の「空」について思考を深め。「般若」についても会得した上で、さらに「中」(ちゅう)と言う観念を作り上げる。それが「中論」という思想になり、「中観派」が成立していくのだが、彼が凄いのは、テトラレンマ(四句否定)と言う思考だ!

通常、使われるジレンマとは、本来いい意味だそうで、以下の説明がある。

ジレンマ:二つを否定することで成立する論理メソッド。二つのもののとちらにもはまらずに、両者を否定することにより、その先に進むという積極的な方法。

トリレンマ:三つの思考を否定的に組み上げるもの。「Aでもなく、Bでもなく、AでもBでもないわけでもない」

→この辺までなら、聞いたことがある。どこか、数学の講義みたいになってくるが・・・

ナーガルジュナは、これでは足りないと、四つにわたる否定を重ねて・・・・・論理自体をなくしていった。論理の否定を加算することで、論理を創出していく。論理を透明にしていくような理論体系を作ったのだという。



つまりは、

「私であることはない。私でないこともない。その両者であることも、その両者でないことも、ない。」

と言う風に、きれいさっぱり、全ての言語的対象が、最後のバニシングポイントに向かって、無くなって行く様な超越的な論理とされる。

何やら、凄い話ではないか?

結局、


論理がバニシング・ポイントに向かって消失していくこと自体が「空」であり、そのような立場が取れることが「中」なのっだと考えた。

⇒この下りで、モヤモヤが完全に吹っ飛んだイカメン。


な~るへそである。        思わず膝を打った。


そういえば、中世絵画の遠近法にもバニシングポイントがあったなあ~そう正に消失点が・・・・


この辺、何かブラックホールに、何もかもが吸い込まれていくような、物質の起源みたいな、宇宙観みたいなものを、勝手に想像するのだが、事物が一点に収斂していくと・・・・はい、これが今日のポイントだよ~テストにはでないけどね・・・



さらに、6世紀の中国では天台法華の哲学的研究者である天台智顗(てんだいちぎ)と言う人が、さらに「仮」と言う思想を加えて、・・・・

「空」「中」「仮」論理の蜃気楼のように、ふわっと空間にまいて。そこにいろいろなイメージが自由に飛び交うような見事な論理を作ったと正剛はのたまう。

なんか、とてつもなく素適な感じがする、憧れと言うか憧憬というべきか?ん~是非とも学んでみたいというぶ厚い欲望が噴出するぞ!

そんな理論が「摩訶止観」と言う本に書かれていて、正剛さまは、いっとき夢中になったと、そこには「禅定」の根本原理がある。

→「もう、やはり、ついて行きたい。」と思わせる『智の巨人』正剛の奥深さは測り知れない。ガンガーラの谷に迷い込んだみたいな気分だ。意味が分からん人は、13日の章がアップされたら読んでみて下さい。


その正剛が、もう一冊を勧めてくれているのが、木村泰賢「印度六派哲学」。ヒンドウイズムに出現した六派哲学のことを書いた名著らしく、6~7世紀に、まさにインド思想の頂点が築かれたことが書かれているらしい。但し、その後衰退し、今やインドには、仏教の影は薄くなってしまうが・・



とにもかくにも、要は「テトラレンマ」から、「空」「中」を見事に説いたナーガルジュナの話を、今朝は、どうしてもしたいがために、ここまで書き続けてきた次第である。

あ~、ほんまに面倒くさい男、それがイカメン藤丸だから、しょうがないですがね・・・・


さてと、これからバックデートして、ライブ追記を3月10日の後ろに、沖縄紀行記は3月11~13日分として、あとからアップすることに致しましょうかね。


今日も、「経」とて、お疲れ様の お釈迦様ということで\\\ナ~ム~。 拝!



では、また!





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